客観を教育によって積み重ね、いや、形成し、そこからはみだしたモノが主観を形成していくのか。
そして、「主観で包みこんだ客観」と「主もなく客もない」空間が、その人固有のセカイとなる。

では、主観の外側はどうなっているのだろうか?

”たとえば『風土』でも、「はれ」というひとつの言葉が「晴天」と「上機嫌」の両方に
適用されているような例(「晴れた日の晴れ晴れしい気持ち」)が見受けられる。
この連関の論理は多様な形で表されるけれども、それはさまざまな文化を超越している。
実際には比喩的関係は言葉のレヴェルでしか機能しないのではなく、
もしろ宇宙論的(コスモロジック)と言っていいレヴェルで機能する。
そして文化はそれ自体に固有の秩序で、この宇宙論的な秩序を解釈するのである。”
「風土の日本 自然と文化の通態」 オギュスタン・ベルク著 篠田勝英訳 ちくま学芸書房刊 より
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