昨日のエントリのおかげなのか、違う調べものして何気に「リテラリーマシン」でぐぐったら
興味深い論文をひっかけてくれた。
情報化社会に求められる学力(雑誌「教育と文化」 No.16) 研究報告ライブラリより
Winds of ASIA=御園生純 のサイト
2000年1月20日・・・前世紀末。
この論文の冒頭に、テッドネルソンの「リテラリーマシン ハイパーテキスト原論」からの引用がある。
カリキュラムは、どんなテーマでも単純化してしまう。それぞれのテーマの間に存在する多くのつ
ながりを切り落としてしまい、そのテーマの内容の豊かさや本来の魅力をそぎ落とした順序正しい
骨組みだけが残るのだ。(中略)さらに悪いことには、この教育システムは世界を『科目』に分け
ることができ、それぞれの科目がきちんと定義できるという態度を生徒に押しつける。また階層を
下から支える『基本』とその上に積み上げられた『高度な考え』というのがあって、後者はあとか
ら学ばねばならないという考えを受け付けているのだ。人々の知性の息吹きを破壊したり、彼らが
アイデアに没頭することや、考えたり、調査したり、仮説を立てたり興味をもったりするのを妨げ
るように、これほどうまく設計されたものは他にはないと言えるだろう。
テッド・ネルソンが指摘している「カリキュラム」の問題以外にも、「スケジュール」の問題もあるのではないだろうか?
「個人の理解の速度」を無視して、決められた期間内にできなければダメとする方法がである。
その結果、自分で考えるより「理解の加速度」が高い個に依存して、さらに、テクノロジーに依存してコピー
を受け取った結果が、私が感じている「劣化コピー」の問題につながっているのではないだろうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿