2008/09/20

「私と言う名の他人」の存在意義

子供のころから昭和生まれ以前の人たちは、「通信簿」によって自分の評価を受け入れてきた。
「情報発信権」が限られた人たちの特権だった時代はそれはそれで社会は成り立っていた。

しかし、インターネットの普及により情報発信」が一般の我々でもできるようになった今、
「情報発信権」の価値は大暴落しているのではないだろうか。

たとえば、生まれてから今までの「生涯通信簿」があり、それが「私」の「社会」における地位を
決めていたとしよう。
「インターネット以前」の20世紀においてはそれは揺るがすことのできない「運命」だったのかもしれないが、
「インターネット以後」の21世紀においては、自ら情報発信をすることによって、「生涯通信簿」の評価を
覆すことも可能になってしまったのではないだろうか。

もし、「生涯通信簿」を守ろうとする組織がいたとしよう(笑)
たぶん、彼らは自分達が下した「主観的な評価」を守るための「方策」をとるだろう。

その「主観的な評価」は既に大暴落してしまった「情報発信権」を有していた人たちしか見ないのに。

<Link>
<特集ワイド>この国はどこへ行こうとしているのか 鷲田清一さん


九月の「生命(いのち)の言葉

     一燈を提げて暗夜を行く 暗夜を憂ふるなかれ 只一燈を頼め
                                            佐藤一斎
皆中稲荷神社 にて拝受。

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